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6月のつぶやき 1
 長崎でまた悲惨な事件が起こってしまいました。とても驚きの事件であり、深く考えさせられる事件でした。
 何に驚いたかというと、小学校6年の児童が、“計画的に殺意を持って”殺害の実行に及んだ事でした。しかし、本当に大人の犯罪上に起こり得るような猟奇的な殺意が存在したのでしょうか?私個人の感想(無責任に述べることは出来ないが)では、リアリティ(現実)の中での殺意・意識は無かったのではないかと思います。
 私達も毎日の様にインタ-ネットと接していて、時折現実と乖離した感覚を持つ事があります。まして、感情を文章にして掲示板やチャットなどのコミュニケーションツールに接していると、普段では抑制する感情を解き放ってしまう場面に出くわす事があります。
 報道によると、加害者となってしまった児童は、「リング」や「バトルロワイヤル」といったバイオレンスティックな内容の本が好きで、テレビ番組もサスペンスドラマなどをよく見ており、ホラー映画も好きだったと伝わっています。正しく、微妙な思春期の子どもの感覚で、バーチャルな部分とリアリティの部分の境を見失ってしまったのではないでしょうか?その証拠に、マスコミ報道で伝えられているように、加害者の児童は、「本人に会って謝りたい」と言っているそうです。現実には居なくなってしまった相手に謝りたいという感覚を持っているということです。つまり、仲間との間で交わしていたチャットの世界から、被害者を抹殺するという感覚で事を起こしてしまったのではないかと感じます。現実に自らが人を殺害してしまったという感覚がないのではないかと想像してしまいます。

 これ等を考えてみると、果たして子ども達の世界にインターネットのコミュニケーションツールが必要なのかと考えさせられます。デジタルデータ社会に対応する子ども達を育成するというお題目は素晴らしいですし、当然、将来子ども達にとって必要不可欠な知識・経験でしょうが、大人でも陥りがちなネット上のブラックホール・ネット社会のポジティブな部分とネガティブな部分を判別しきれない子ども達に、その違いや怖さを理解させる事は並大抵のことではないと思います。近年急激に子ども達がコンピューターや携帯端末に接する場面が増え、学校の教育現場でも伝える側が熟知していない事柄まで、子ども達の柔軟な頭脳はバーチャル上で対応してしまっています。コンピュータゲームの世界では、より現実感に近い3Dバーチャルの世界で、人と殴り合い、人と殺し合うゲームソフトが氾濫しています。現実に、人の心の痛みを理解することや自己表現の仕方・社会のルールを体感していない年齢の彼等が、バーチャルな世界では全く飛躍した世界として広がってしまっているのです。社会教育という名ばかりの隠れ蓑で「道徳教育」が衰退し、実社会との触れ合いよりも、バーチャル社会に自らの心を置いてしまっている時間が多いということは、その影響力は甚大であり、将来の人間形成にマイナスの要素を孕んでいるのではと強く危惧します。逆に言うと、今回の事件は起こるべくして起こった悲劇と言えるのではないでしょうか?社会が作り出してしまった悲劇とも言えるのでは?常日頃接している友達同士が、何故メールやチャットなどのツールを使わなければ、自分の感情を相手に伝えられないのか?面と向かって話し合うという機会が乏しくなっているのか?人前で自分の考えを主張できなくなっているのか?子ども達の生活環境が劇的に変化してしまって、現実と空想の世界の見境がつかなくなってきているのでしょうか?私達のように、子どもを持つ親として、普段子ども達と接している者として、決して他人事ではない大きな社会問題を投げ掛けられたのではないでしょうか?

 ネットコミュニケーションに入り込んでしまっているという事は、勿論私達が伝えようとしている外遊びの機会は減ってきます。私達でさえ、インターネットに接していると2・3時間の時が経過してしまうのは日常茶飯事になってしまいます。バーチャルな世界が子ども達の身の置き所になってしまうことに、とてつもない危機感を感じてしまうのは私だけなのでしょうか?子ども達に、体力の低下・学力の低下に加え、実社会との分離という現象が起き、自分が社会で一人立ちするころには、自らが判断できる事柄と現実が余りにもかけ離れていることに戸惑う環境が出来てしまうのではないでしょうか?
 本当に子ども達の世界で、この現象が広がってしまう事に末恐ろしさを感じてしまいます。

 私達のコミュニティに参加してくる子ども達を省みてみると、外遊びや運動をしに学校にやってくるのに、携帯テレビゲームやカードゲーム・携帯電話を持ち歩いてやってきます。遊びの中で、自らの意に沿わない場面になると、他人とは離れてテレビゲームや携帯電話のメールに興じてしまいます。彼等がその世界に入ってしまうと、他人の忠告などを聞くような姿勢は全く見せず、そのバーチャルな世界に浸ってしまっていることを思い返しました。
 この事件は、特定の人間が引き起こした悲惨な結果ではなく、現在は何処にでも起きておかしくない事件なのだと、私達は考えてなくてはならないのでしょう。それだけに、純粋な子ども達が興味を持てるような活動に心掛け、より一層地域の大人達の努力が必要とされる時代になったのではないでしょうか。

 それにしても、この事件をきっかけに一番許しがたいのは、ネット上のある掲示板に加害児童の顔写真を公表した輩がいることでした。数年前の大阪の児童殺傷事件や一昨年のやはり長崎で起きた子供同士の誘拐殺傷事件の加害者も、ネット上で顔が公開されてしまいました。公開している人間は、面白半分で野次馬気分を満喫しているのでしょうが、これこそ子ども社会を閉鎖的にしてしまう個人のエゴと言って過言ではなく、社会的にマイナスの影響を与えても、決して凶行の抑制にはならない行為だと思います。却って、物見高いマニアックな者達の酒のつまみにされてしまうのが落ちではないでしょうか?断じて許される行動ではありませんね。それだけに、ホームページや掲示板サイトを運営している管理者は、最善の配慮と注意が必要だと思います。現在のところ、ネットコミュニケーションは、個人の意志をストレートに反映してしまい、人を傷付けても責任の所在がはっきりしない媒体となっています。自己責任の元で、自由な意志表現が出来ることがインターネット上の大きな長所ではありますが、裏腹に行き過ぎた自己主張は大きな悲劇を生み出すきっかけとなる可能性を大いに秘めています。ネット上の過剰反応が、新たな悲劇を増幅させてしまう可能性は大いにあると思います。
 かといって、ネット上に法規制を掛けてしまったら、インターネットの長所を制御してしまう事になり、自由な自己主張が抑制されることになります。子ども社会で起きた事件よりも、その事件が誘発してしまう半大人が演じる非常識な行動のほうが、社会に撒き散らす病原菌になってしまうのではないでしょうか。自らも含め、インターネットを活用している人それぞれが、自己を制御しながら常識を逸脱しないモラルが問われていると思います。

 何はともあれ、これ等のことで子ども達の社会が狭められてしまう事に危機感を感じ得ません。危険な大人がいるかもしれないから公園には近付くなとか、インターネットへの媒体にアクセスできないようにコンピュータを触らせないとか、子どもの感性に蓋を閉めてしまうような風潮が起きてしまうことを懸念し、豊かな人間形成を目指す教育とは何であるのか、教育現場のみならず大人社会が皆で真剣に考えなくてはならない深刻な問題を突き付けられたのでしょう。
 by Gori
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